千葉ニテ『涼宮ハルヒの消失』ヲ観タルコト(θ)
まさか今になって『涼宮ハルヒの消失』の感想をダラダラとwebの大海に船出させることになるとは思いもしなかったが、Ωとの会話の中で「コバルト爆弾αΩ内で、ひとつの作品にたいして感想が異なっているのも面白いのではないか」ということになったので、数十日、スッカリ埃を被ってしまった記憶をサルベージでもしながら書こうと思う。
まだご覧になって無い方は早々にブラウザの戻るボタンをクリック、MacならCommand+[、あるいはマウスジェスチャーで任意のジェスチャーを行ってくださると嬉しい。どう取り繕おうとしても以下はネタバレ要素を含むんです。
私はこの『涼宮ハルヒの消失』を2回観た。そしてその2回目になって気がついたことだが、今回の主役たる長門有希はこの劇中で2冊、その本の登場そのものが露骨に寓意的な小説を読んでいる。世界が改変される前:1984年新潮社『虚航船団』筒井康隆著、改変後:1999年新潮社『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹著、このふたつである。
Googleで「涼宮ハルヒの消失 虚航船団」とでも検索すれば何件かブログがHitすると思うが、この2冊とそれを読んでいる時点での長門有希の心情は強烈にリンクしているように見える。ではどのようにだろうか。
世界改変前『虚航船団』:
筒井康隆の伝説的な著書となるこの『虚航船団』は、文房具の自己紹介ならぬ自我紹介である第1部、鼬族の歴史(現実の歴史における人間を鼬に置換した架空の歴史)が延々と続く第2部、そして文房具と鼬族という異星人同士の戦争が描かれる中で、なぜか筒井康隆自身と思われる人物の随想というか、愚痴というかが混入する第3部という構成をとっている。『虚航船団』を読んだ方なら分かると思うが、文房具=長門有希という構図でしかありえないという確信をもってしまう。
現実の文房具には意識などあるはずもないが、『虚航船団』では当然のように文房具は意識を持ち、悩み、他文具(他人)と口論し、妬み、性欲を覚え、自意識を問い詰め、挙げ句自意識の防衛、その最終段階とも言える分裂症的な症状に陥る。ここまで書けば十分だろう。長門と全く同じなのだ。彼女は『虚航船団』内の文房具と同じ境遇にあって、劇中の今後(バグを溜め込み暴走、世界を改変する)を暗示している。
ついでに、これは推測でしかないのだが、この『虚航船団』第3部で時折挟み込まれる筒井康隆らしき随想、ここにキョンを当てはめて考えるのも面白いかもしれない。『虚航船団』内に広がる世界(鼬が「人間」として住む地球、鼬にとって宇宙人の文房具、そして2者の戦争のこと)において、筒井康隆はこの世界においての随想を挟む、のではなく現実の、人間が「人間」である世界において語る。つまり2つの世界が扱われているのだ。鼬と文房具が血やノリを流しながら戦っているさなかに、筒井康隆は別の世界の愚痴や出来事を挟み込んでいく。こう書いてみると、キョンと筒井康隆……別の世界の中にあって、自分の世界について志向している様がよくよく似ている。
そして『虚航船団』第3部、ラストに文房具と鼬との混血児が喋るこの科白を忘れてはいけない。
「ぼくはこれから夢を見るんだよ」
世界改変後『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』:
偉そうなことを言っておきながら私はこの本を実は読んでいない……いや読んでません。ストーリーに対するある程度の理解はできているつもりですが、『資本論』を読んでいないのに資本論について書かれた本だけを読んで語るような真似はあまりよろしくないので、書かなくてもいいですか……おねがいします……えっ、先に2冊とも超大事とか言っといて片方読んでないから説明できませんとか頭おかしいんじゃないの? その通りですよねすいません。
ひとつだけいいですか。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をセカイ系として評した言説と今回の長門有希がよく接続されて語られています。おそらくそれは正しいのでしょう。それは、わざわざ『虚航船団』を初版の装丁で劇中に出した制作側が、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は1999年の装丁で配したことからも読み取れるのではないでしょうか。世紀末、セカイ系が全盛期に水色と白色のツートーン装丁で現れた『世界の終わり〜』は、セカイ系のイコンとしては十分過ぎるほど機能しているように思われます……ただその装丁版しか資料として手に入らなかったんじゃないの、って? ……そうかもしれませんが、そうではないと信じたい、のです。
本以外で気になった点:
世界改変後のSOS団はキョンを除いて全員、改変前より魅力的に描かれているのが印象的。ハルヒの制服は改変後のほうがずっと可愛いし。ポニーテールの場面とか、おでんの時とか、キャラクターに恋してしまいそうな場面が盛りだくさん。朝倉さん好きです。
難点:
キョンが部室で修正プログラムを起動させるかどうかというところの場面で、キョンのモノローグが非常にタルいこと。劇中でさほど改変後の世界に情を覚える場面が大してなく、基本的に改変前に戻ることを目的として行動してきたくせに、エンターキーを押すか押さないかの決断時にウダウダと長ったらしく心情描写を挟むのはいかがなものか。観客がそこに至るまで読み取ってきたキョン自身の心情に対して、画面の心情描写が明らかにオーバースペックだったので、そこのズレが気持ち悪い。
最後に:
先のエントリーでΩはキョンに対して宇野常寛的な批判(決断しない軟弱野郎的な)をしていたので、私は、そうではないという立場に立ってみる。キョンは”あえて”セカイ系であることを選んでいるように思えた……実は決断していたんですよ。Ωさん。ってことで。
そんなことより、埃被った記憶を頼りに打鍵しているうちに、機会があったらもう一度観たいと思うようになってきている。まだロードショーやってるんですか? Google先生に後で訊いておこう。
というわけで、これから『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読もうと思います。
NTRseries004
鷺梁津駅を降りると,見たことのある模様が!!
ま・まさか…
やっぱり!!
D!!
日本ver.もアルノ??
そんなわけで,今回のニテルシリーズは박카스(bacchus)Dでした。
涼宮ハルヒの消失(Ω)
観ようかどうしようか迷っていたのだが、先週末に友人に誘われて観てきた。
ハルヒに関しては、私は第一作目の小説『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んだだけで、アニメは見てない。『憂鬱』がいま一つだったので、それ以上追うのをやめてしまった。
なので、まず『憂鬱』の感想を少々。
本作の主人公「キョン」は、事の当事者ではなく、とにかく傍観者であろうとする。主体性の無さに突っ込みたくもなるが、そういう人物もいるだろうということでそれは置いておく。ただ、私は傍観者に対して都合の良すぎる展開が気に入らなかった。
例えば朝倉涼子にナイフで襲われるシーン。教室の扉は情報改変されて無くなっており、逃げ道は完全に断たれている。ここでキョンの取り得る選択肢は二つ。傍観者であることを止めて抵抗するか、黙って殺されるかだ。単純に考えれば前者を取るだろうが、あえて後者を取るのも傍観者としてのプライドが垣間見え、潔いといえる。
で結果はといえば、朝倉の能力でキョンは身体が動かせなくなり、刺されそうになった瞬間に長門が助けに来るというもの。
絶体絶命の状況で、さらに身体の自由を奪われるというのがポイントだ。命のかかった、主体的に行動せざるを得ない状況にもかかわらず、自分以外のものが行動を選択し、その葛藤を排除してくれている。一見して最悪の状況に追い込まれたかに見えるが、実はかなり甘えた展開といえる。
現実において傍観者でいるためには、それなりに選択しなければならない。しかし本作において、キョンは全く選択をしない。傍観者であることすら、選択したとは言い難い。彼はただ外部の選択に身を任せるだけの何もしない男だ。それを良しとしてしまう、葛藤も迷いも無いぬるい展開に私はついていけなかった。ついでに言えば、そのような作品が支持され、流行することも信じられなかった。
それに対して『消失』では、傍観者?を決め込んでいたキョンが、日常の崩壊を前にして、当事者であることを選択するらしい。気に入らなかった『憂鬱』がそのための伏線であり、『消失』まで含めてのハルヒ人気であるならば、これは見に行こうかしらんと思った次第。
では、以下映画の感想。多少ネタバレで。
冒頭のシーン、これは素晴らしかった。観ていて震えた。
真っ暗な画面、どこからか聞こえる目覚まし時計のアラーム。うめき声と共に、まぶたを開くように部屋の様子が映し出される。今まさに起きようとするキョンの視野である。ここで観客はスクリーン越しに、キョンの視野を共有することになる。
これはつまり、主人公「キョン」とは映画を観ているあなた自身だ、という宣言であろう。
ひたすら受身であったキョンの転機となる本作は、それを支持した観客に対しても転機を促す作品にするということか。ただの娯楽作では終わらせないという製作側の意気込みを感じる。
もう一点、これはと思った演出はガラス等の反射である。本作では窓ガラスや光沢のある床に、妙に人物が映り込む。
この演出の効果は二つある。一つは元の世界への憧憬。12月18日早朝を境に、キョンを取り巻く人物の性格、人間関係は変化してしまうが、外見の変化は全く無い。何かに映り込む像だけは、元の世界のままなのである。キョンが自席から呆然と外を眺める時、見た目は何も変わらない教室の様子がガラスに映り込むことで、彼の孤独と不安が一層強調される。
もう一つの効果はキョンの自省である。ハルヒ、古泉を失い、みくるに突き放されたキョンは、長門だけを頼りに、彼女の肩を掴んで訴える。結局彼女も変わってしまっていたが、顔を近づけた際に、キョンは長門のメガネに映り込む自身の姿を見る。ここで独りきりになったことを痛感すると共に、自分の像と向き合うことで、自分は何をすべきなのか、何がしたかったのかという省察が開始される。冒頭の目覚めのシーンの意味も考えると、それは観客の自省を促す訴えに他ならない。お前はお前の日常をちゃんと受け止めているのかと。地味ではあるが本作の山場の一つであろう。
と、ここまでは非常に面白かったのだが、あとは伏線の回収に終始してしまった感じで、ダレてしまった。何より、キョンが結局決断を下していないのには肩透かしを食らった感じ。朝倉がキョンを刺して止めるわけだが、実はキョンを救ったのだ。『憂鬱』と同じで、彼を選択の葛藤から開放したのだ。世界の修正を後回しにする結末もそれを裏付ける。なんとまぁぬるいこと!
結局『憂鬱』での私の不満が、『消失』で解消されることは無かった。前半の演出が良かっただけに、残念であった。
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